第68回大会日本体育学会発表 静岡大学 体育社会学2017年9月10日(日)
五体投地(traditional religious prostration practices)を考える
直立2足歩行という進化の歴史的・発生的な制約条件への方便的適応行動として
○倉品 康夫(帝京大学)
直立2足歩行の歴史と経験は四足歩行時代の長さから見れば極めて短く、ヒトは直立2足歩行に十分適応できていない。
この進化の歴史的・発生的な制約条件に由来し腰痛、胃下垂等に罹患する。
人類学者、近藤四郎(1981)は前述の解決として四足歩行「ハイハイ運動」を勧めている。その機序とは発達の取り戻しとしてのハイハイが、もう一度立って歩くための準備をしなおすである。この運動を取り入れて室伏広治は障害を克服している。
伝統宗教には平伏運動(traditional
religious prostration practices)が礼拝として行われる。仏教では「五体投地」という。これは、両手、両ひざを地面につけて、額を釈迦の御足にすりつけて敬う礼拝の作法である。
これらの運動(practice)は一日の決まった時間に行うことで、緊張している筋肉や腱を引き伸ばし、血流を改善させる。また、しゃがみ、立ち上がるという動作は、腸腰筋など体幹のコアの筋肉を刺激し、基礎代謝を増加させ、バランスを崩した身体を本来の状態に戻す働きをする。
このように宗教の礼拝に方便的に組み入れられている運動について考える。
帝京大学短期大学紀要 第 40 号
(2020 年 3 月)
ハイハイ運動身体文化を考える
倉品康夫
要約
ヒト同様、二足で立っているペンギンの胃は骨盤に癒着している。「胃下垂」にはなら
ない。
また、ペンギンもカンガルーも下肢を折り畳んだ蹲踞姿勢で立っていて、心臓から下肢
の落差は小さく、静脈還流の揚程は短い。「下肢静脈瘤」は顕れないと思われる。
ところで、「動物の身体とは、改造に改造を重ねた、継ぎ接ぎだらけの集合体(遠藤,
2006)」だと云う。霊長類が現れたのが 7000 万年前、直立歩行の猿人登場が 440 万年年前として、ペンギンが歩きだした約 5000 万年前に比べると、ヒトの二足歩行歴、身体の「改造」歴は未成熟である。
そこで、ヒトは「改造」を待たずに、取り急ぎ、二足歩行諸問題に「知恵」で「人工的」に対処する試行をした。以下、その事例を述べる。
ある人類学者が「ギックリ腰」になり、ロコモーションの進化の筋道の逆戻りをして、
再び、人間にもどるプロセスを思いついた。四足歩行ハイハイ運動に努めると、やがて立って歩けるようになり、これを「ハイハイ運動」として提唱した。
0 歳児・乳児保育でも、歩き始めの段階で、トンネルを潜るハイハイ運動をさせ、行きつ戻りつ、身体を作る。
ハンマー投げの室伏広治はハイハイ運動で腰痛を克服した。アスレティックコンディ
ショニングコーチとして、陸上短距離走の桐生祥秀に全身の筋肉をうまく使うことができ
るように、「ハイハイ運動」を授けた。そして、「成人になってから赤ちゃんの身体の使い方を学び直せば、身体をうまく使えなくなってしまった人が、再び動けるようになる(室伏,2019)」可能性を指摘している。
印度の挨拶はナマステ(namaste・南無)、丁寧なのはナマスカーラ(namaskar)・接足作礼である。現在でも印度では目上の人の足に触れて挨拶する。印度哲学の一派である仏教では南無帰命頂礼・仏足頂礼・仏足稽首・五体投地する。
比叡山には礼拝エクササイズによる「マッチョ」な天台僧が存在する。ヨガの太陽礼拝
(surya namaskar)は即ち優れた五体投地全身ハイハイ運動である。ハイハイ運動の日常実践が禅宗文化由来の雑巾掛けである。幸田露伴はふとった胴体の癖に整然と軽快なリズムある雑巾掛けをした。一日五回、律動的な全身運動礼拝するムスリムやチベット仏教徒はハイハイ運動を日常的に実践的智慧とする。
進化の代償である腰痛等の予防の健康実践としてハイハイ運動は運動身体文化、また、
宗教的方便として日常生活に組み込まれていると考えられる。
【キーワード】四足歩行 ; quadrupedal walking; 五体投地 ; namaskar; コアトレ ; core exercise
1 はじめに
ヒトは大脳進化の産物として言葉を使い、虚構空間を皆で共有可能とする「心」を手に
入れた。その共有空間に宗教も作られ、健康にも作用して集団としての生存力を高めたと考えられる。
その心理的経路としては「救い」等のメンタルヘルスがあり、行動的経路には健康行動
共有が埋め込まれた。この宗教的慣行には「御利益」・「功利性」は一切述べられず、神との「契約」とされた。
例えば、ユダヤ教徒及びイスラム教徒は宗教的慣行として「割礼」(包茎手術)を施すが、陰茎癌の予防効果の機序についてその一部が、疫学調査によって証明されている(重原,2013)。
ところで、あまりに急激な大脳進化の代償として、直立二足歩行という高度な身体操作
ヘの適応は追い付いていない。その為、ヒトは日常的に腰部に不快感や痛みを感じる。
本稿の主題は、人類共通の悩みであるその不調を緩和改善する全身エクササイズの宗教
慣行である「契約」的礼拝行為、五体投地についてである。
この五体投地に似たエクササイズの乳児的ハイハイ運動には、腰痛の改善機能があるこ
とを人類学者が検証した。その機序は、四足歩行・ハイハイ運動で退行的に発達段階を過
去の安定した四足歩行状態へとステップバックさせて身体機能をリセットして、一度態勢
を立て直し、現実の社会生活への適応を促す、と考えられる。
今まで、五体投地の礼拝については後述する仏教分野では言及されている。しかし、ス
ポーツ体育研究分野では、四足歩行的トレーニングの方法研究は、緒についたばかりで、
この二つの分野の統合的考察は行われていない。
ここに、この研究の目的として、体育学と宗教学の架橋は意義があると考え、本稿は以
下に「ハイハイ運動」を体育学、歴史、宗教などの側面から検討を行い、腰痛改善の積極
的エクササイズの宗教行動的側面、輪郭の論述を行う。
2 四足歩行から直立二足歩行というロコモーションの進化と適応を考える
2.1 ヒトは直立二足歩行に十分適応できていない
人類は直立二足歩行ロコモーションにより、巨大な大脳新皮質と「手」を手に入れ、今日の文化を築いた。しかし、ロコモーションの進化の過程を考えると、1 億年から 7 千万年前に、地球上に最初の霊長類が現れて四足歩行して、人類の直立二足歩行の歴史は400万年前のアウストラロピテクスからの始まったと考えられる。
竹光(2012)は「直立二足歩行の歴史と経験は四足時代の長さから見れば極めて短く、そのためか、我々人類は直立二足歩行に十分適応できているとは思えない点が目につく」という。ヒトは、直立二足歩行の変化に十分、対応して進化・化成できていない代償として、歴史的・発生的に体幹はきわめて複雑で不安定な構造を呈し、その制約条件に由来し、腰痛、胃下垂、痔疾、下肢静脈の逆流、二足歩行由来の胸式呼吸から生じる肩こり等に苦しむと考えられる。
2.2 ロコモーションの進化をハイハイ運動で逆戻りしてギックリ腰をリセットする
人類学・ロコモーション研究者、近藤(1981)はギックリ腰になり「ロコモーションの進化の筋道を退歩して、また、人間にもどってこよう」とハイハイ運動に努め、やがて「立って歩けるようにな」った。そして、「乳児には歩き方の秘伝があり、魚類の泳ぎからはじまって以来のロコモーションの進化の姿が凝縮され、何かたいせつなものが秘めこまれている」と考えた。
そして、前述、未熟な直立二足歩行ロコモーションの代償である腰痛の解決策として、
この人類学者は「補償的」四足歩行「ハイハイ運動」を勧めている。その機序とは発達の
取戻しとして、ハイハイに退行して、身体を初期化し、もう一度、肩甲骨と股関節の協調
性などを自律的に確認し、立って歩くため、きわめて複雑で不安定な構造の体幹や胸式呼
吸をリセットする、ということになる。
2.3 乳児のハイハイと歩行の行きつ戻りつの実践
近藤(1993)は「ハイハイをじゅうぶんにすれば、病気の子ども以外は、自然に直立し
て歩くようになる」、「歩行器は避けたほうがよいにきまっている」と結論している。
実際の乳幼児の保育実践として横井(1999)は 0 歳児の保育において、歩き始めの「歩きも左右にふらふらしてぎこちない」段階で「様々なトンネルを潜るトンネル遊び」を施し「身体感覚を養い」つつ、歩行の試行と「動きの土台として」のハイハイ運動を相互に実施し、歩きとハイハイ「行きつ戻りつ」して「身体つくり」をしている。
2.4 体育学からみたハイハイ運動
正木(1978)は「体育学からみた丈夫なからだづくり」の観点から「残念一番多いのが、転んだ時に手が出ないこと。ハイハイをしていると、手を出して自分の身体を守りながら動くということを経験ができる。しかし、ハイハイをあまりしていないと、とっさに転んだ時に手で支えるという感覚が弱く、顔をケガする子どもを保育園で良く見かけ」ることを報告している。
また、正木は体幹が未発達で、姿勢が悪い、ボールを投げるのが不得意、走ったりするのが苦手なのは、ハイハイで養われるべき足親指の蹴りが使えないことに起因すると考えている。さらに、四足歩行における足親指の踏ん張りがフクラハギとアキレス腱及びハムストリングスを発達させ、ペタペタ歩きから回内動作(プロネーション)のある歩きを作るとしている。
2.5 室伏広治、「鉄人」の秘密は “ 赤ちゃんトレ ”
室伏は、ハイハイ運動をチェコのパーヴェル・コラー博士の体幹トレーニングから「赤
ちゃんトレーニング」として取り入れた。
「赤ちゃんが生まれてから 1 歳になるまでの過程で、身体で覚えていく動作や姿勢反射
を利用し、身体機能や身体感覚を呼び覚ますそうとする(室伏,2012)」、補償作用に注目して、「身体感覚を見つめなおす」というコンセプトから、あらゆる動作の基礎となる体幹を、最も効果的に動かすための体幹トレーニングを実践した。
室伏は「30 歳を過ぎて、いろいろなところに故障が出てきて」悩んだ。そして「根幹
にある」「体の基礎」が「しっかりしてないと、必ずけがをする」として「筋肉が発達し
てないのに倒れない、あのバランス感覚は大人にはないもの」であると、実際の体幹トレーニングのやり方として、赤ちゃんの”ハイハイ”をまねたストレッチを実践している。「四つんばいになって対称の手と足をのばしながら進むと、全身の筋肉をうまく使うことができる」という。
この「対称の手と足を伸ばしながら進む(報知新聞,2011)」とは、「霊長類型ハイハイ運動(近藤,1993)」ロコモーションと考えられる。確かに赤ちゃんの動作を見習ってトレーニングに取り入れることによって、大人も赤ちゃんと同様に負担の少ない、バランスの良い動作が行いやすくなる。これは発育運動学のコンセプトの一つとなりつつある。
3 伝統宗教の四足歩行的平伏運動
3.1 ナマステ namaste のナマスは南無・ナマスカーラ
伝統宗教にはハイハイに近い四足歩行的平伏運動が礼拝として行われる。
インドの帰命・敬礼する、「こんにちは」は namas。この頂礼はナマスカーラ(namaskar)が感謝、敬意、尊敬、崇敬、服従、帰命を表す(平岡,2015)。インドの「ごきげんよろしう」の挨拶で、現在でも普通に目上の人にきちんとあいさつをする場合は相手の足に触れる。これの略式が「ナマステ」(namaste)である。さらに、普通のナマスカーラよりはるかに強い敬意を伴った挨拶、「体の 8ヵ所を地面につけた特別な敬礼」サシュタンガ・プラナム(Sashtanga Pranam)を寺院の神の前、自分のグルの前、僧の前で行う。
印度哲学の一派である仏教の南無阿弥陀仏の南無(ナム)は、サンスクリット語ナマス
(namas)の音写である。漢訳語として帰命も用いられる。このナマスカーラ(namaskar)の訳語は南無帰命頂礼・仏足頂礼・接足作礼・仏足稽首・五体投地である。仏教では、両手、両ひざを地面につけて、額を釈迦の足にすりつけて敬う礼拝の作法である。
チベット仏教では延々と路上で聖地礼拝し、タイでは国王に対して行う。また、ムスリムの礼拝も五体投地的で「礼拝は(…)律動的な全身運動を伴う(大川,1992)」
キリスト教(ユダヤ教)の初期聖典である『創世記』でも、同様の聖人を敬う丁重な挨
拶が以下のように古代に行われている。18-2「地に身をかがめて」、19-1「立って迎え、
地に伏して、わが主よ」、33-3「みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて」、
42-6「ヨセフの兄弟たちはきて、地にひれ伏し、彼を拝した」、43-26「ヨセフにささげ、地に伏して、彼を拝した」、50-18「彼の前に伏して、このとおり、わたしたちはあなたのしもべです」(オンライン聖書『創世記』)
3.2 日本仏教における五体投地(pancha mandara namaskar)
日本の仏教では浄土真宗以外の各宗派は、仏祖、歴代の祖師及び阿字等を讃仰するため
に五体投地の礼拝をする。これは座禅・阿字観等の瞑想を行うためのウォーミングアップ
とも考えられる。
深々とした礼拝は横隔膜に刺激を与え、肺を引き下げ、その後の瞑想の腹式呼吸の準備
と考えられる。浄土系経典、無量寿経・観無量寿経にも「五体投地」は数箇所、言及され
る。
天台宗では「冬でも身体中が汗だらけにな」る、この礼拝行を一日三千回することを目標とする修行がある(道元,2012)。日常的に 108 回行う宗派もある(悟藤,2008)。天台僧・源信『往生要集』「この語をなしをはりて、大山の崩るるがごとくにして五体を地に投げて、もろもろの罪を懺悔しき(源信,1992)」という意義が伝えられている。
五体投地は「仏教の根底にあるもの(玉城,1986)」で「その原点まで遡ってみると、実は目覚めの構造であ」ると考えられる。その原始仏教の「源流」から大乗仏教に至る「目覚めに至るさまざまな道」の中で共通に伝えられたと云うことができる。
3.3 エクササイズ的ヨーガにおける五体投地、太陽礼拝
日本で一般に言われるヨーガの行法は身体の訓練を主目的としたハタ・ヨーガを指す(水野,1989)。つまり、エクササイズ的ヨーガと考えられる。このヨーガでも「天地自然に存在する生きとし生けるもの(衆生)」への「礼拝 = ご挨拶(ナマスカーラ)から始まる(田原,2007)」という。
バラモン教及び印度教の古代聖典、リグ・ベーダ(梨倶吠陀)には B.C.1200 年代にお
ける古代インド神話の「太陽の恩恵的方面をあらわ(高楠 ,1914)」す「ミトラは、頂礼・五体投地をもて近づくべし(辻訳,1970)」とある。また、この太陽神ミトラを主神とする信仰は古代のインド・イランに共通する。「古代イラン、ゾロアスター教の二元論的世界表象が、極めて特徴ある形でイスラーム化され(井筒,1991)」て働いているとするならば、即ち、「太陽神≒アッラー」への挨拶、礼拝が五体投地となる。太陽神への挨拶、礼拝が、五体投地となる。
この太陽礼拝は基本的で優れた全身運動エクササイズで、これを早くやれば「バーピー
ジャンプ」となる。
後述の雑巾掛け高這いハイハイ運動とは、太陽礼拝の「下向き犬のポーズ」の部分であ
る。エクササイズ的ヨーガでは、このポーズは休息に当たるという。下垂した内臓が本来
の場所に位置した状態での四足動物的呼吸、即ち腹式呼吸が求められる。この刺激は瞑想
時の腹式呼吸の準備運動といえる。
4 ハイハイ運動としての雑巾がけ
4.1 体育学からみたハイハイ運動としての雑巾がけ
前述、正木はハイハイ運動の「とりもどし」の実践実技として雑巾掛けを提案している。
結果として、親指の蹴りによる土ふまずの形成を報告している(正木,1978)。また、発達遅滞により歩行に難がある場合、フクラハギの筋肉の発達に寄与するという(近藤,
1981)。
4.2 雑巾掛けというハイハイ運動文化
雑巾掛けとは前述「霊長類型ハイハイ運動」ロコモーションである。尻を高く上げて這う、高這いハイハイの全身運動である。これを一日の決まった時間に行うことで、緊張している筋肉や腱を引き伸ばし、フクラハギの筋肉を使うことで下肢の血流を改善させるミルキングアクション(静脈還流)となる。また、しゃがみ(蹲居姿勢)からの、立ち上がる動作は、腸腰筋など体幹のコアの筋肉を刺激し、基礎代謝を増加させる。
4.3 露伴の雑巾がけ
「父(露伴)の雑巾がけはすっきりしていた(…)ずんぐりしていたが、鮮やかな神経
が漲ってい、すこしも畳の縁に触れること無しに細い戸道障子道をすうっと走って、柱に
届く紙一ト重の手前をぐっと止る(…)規則正しく前後に移行して行く運動にはリズムが
あって整然としてい、ひらいて突いた膝ときちんとあわせて起きた踵は上半身を自由にし、ふとった胴体の癖に軽快なこなしであった」(幸田,1967)。
かつて、雑巾掛けハイハイ全身身体運動が日常的に行われていたことが述べられている。
今日でも禅僧にとって、雑巾掛けと五体投地と座禅は修行の禅宗文化のセットである。
5 まとめ
ヒトはまだ、直立二足歩行に十分適応していないと考えられる。そこで、進化の代償の
解消として、ロコモーションの進化を「動きの土台」ハイハイまで退行させ、身体を初期
化し、進化の代償をリセットする日常的運動が必要と考えられる。理想のハイハイ運動は
ヨーガの太陽礼拝及び掃除文化、雑巾掛けとなる。これを「霊長類型ハイハイ運動」「下
向き犬のポーズ」高這いハイハイ全身運動と呼ぶことができる。
日常的ハイハイ運動は横隔膜に刺激を与え、下垂した内臓の位置及び下肢の血流を改善し、腸腰筋など体幹のコアの筋肉を刺激し、肩甲骨と股関節の協調性などのバランスを崩した身体を本来の状態に戻すきっかけを与え、肩甲骨の骨盤的活動により腹式呼吸せざるを得なくなる。
ユダヤ教徒及びイスラム教徒の殺生戒「食物規制は」「不合理な習慣」ではなく合理的「ねらい」があり「社会学的な意味があ(橋爪,2001)」るという。
そこで、宗教人類学的類推から、四足歩行的、宗教儀式及び掃除運動文化、前述、宗教
的契約も殺生戒同様の宗教社会学的意味を持つと考えられる。他の宗教的戒律や習慣の機
能と同様に、四足歩行的儀式エクササイズには「進化の代償」を解消して健康になるとい
う救済の合理的「ねらい」が存在する。礼拝及び日常の掃除は腰痛救済の「巧みな方法(池上,2010)」として日常に組み入れられている。これは衆生を健康に導く為に、仏陀や唯一神ヤハウェ・アッラーが創り給うた「方便」(upaya・skill in means)である、と考えることができる。
また、最後に宗教の多様性を肯定、容認しようとする「宗教多元主義」(ヒック,
1990)的見地から一神教と、それ以外の宗派、の二者における五体投地と云う宗教伝統の普遍性、相補的役割について考える。
神的実在の捉え方の違い、
前者は『ヤハウェ』『アッラー』の超越神を人格的に捉える「有神論」であり、
後者は非人格的な久遠の『法身仏』と云う「非有神論」的な絶対者の「概念」である。
故に五体投地と云う礼拝様式における神的実在へのアプローチの違いは、
前者は、ダイレクトな人格的超越神実在実感体験、
後者は、非人格的神的実在への思考的、瞑想的近接体験、
と考えられる。しかし、アプローチの違いはありながら、同一の神的存在が、一方で人格的に、他方で、非人格的に捉えられと云うことは宗教多元主義的には「相補的な真実」となる。
以上、五体投地と云う「同一の神的実在に対する、相補的モデル」の存在はヒックの宗
教多元主義仮説
「諸宗教は対立的な関係ではなく、相互補完的」で「世界の偉大な信仰はどれも同一の究極的な神的実在に対するさまざまな観念や覚知、また、それに応じたさまざまな対応の
仕方を提示している」ことの証左と考えられる。
補遺
雑巾掛けの機序を再検討すれば、学校教育における雑巾掛けを罰・苦役から全身運動へ
と意味づけすることは可能である。
また、今後、ポール・ウォークにおけるポール操作による「上半身の参加の」「上半身
の動作と下半身の歩行とを連動させる」(倉品,1993)ロコモーションと四足歩行の機序の関連性についても検討したい。
【引用文献】
Hick.John 間瀬訳(1990)宗教多元主義―宗教理解のパラダイム変換―法蔵館,p269.
Jehovah’s Witnesses(2019)創世記,オンライン聖書 ; https://www.jw.org/ja/ 出版物 / 聖書 /nwt/ 各書 /
創世 /(2019/08/30)
池上要靖(2010)upaya-kausalya は二重構造を有するか.日本仏教学会年報,76:p31.
井筒俊彦(1991)イスラーム文化,岩波書店,p188.
遠藤秀紀(2006)人体失敗の進化史,光文社,pp129-130.
大川周明(1992)回教概論,中央公論社,p158.
源信,石田訳注(1992)往生要集・下巻.岩波書店,p93.
倉品康夫(1993)ポール・ウォークを考える-ストックを使って上半身を活用し積極的に登山・野
外活動を行なう-.日本体育学会大会号,44B,p750.
; http://ci.nii.ac.jp/els/contents110001906391.pdf?id=ART0002219127(2019/08/30)
幸田文(1967)父・こんなこと.新潮社,pp95-96.
幸田文(2009)幸田文しつけ帖.平凡社,p72.
悟藤あすか(2008)あすかの修行日記.大法輪,75(5),p198.
近藤四郎(1993)ひ弱になる日本人の足.草思社,pp35-37.
近藤四郎(1981)足のはたらきと子どもの成長.築地書館,pp84-87,p142.
重原一慶(2013)陰茎癌の疫学と病因,Japanese journal of urological surgery, vol.26, no.6, p905.
高楠順次郎,木村泰賢(1914)印度哲学宗教史,丙午出版,p88.
竹光義治(2012)人類の進化における直立二足歩行の光と影―整形外科医療の立場から,旭川医科
大学研究フォーラム,12(1),p23.
田原豊道(2007)ヨーガまんだら入門,池田書店,pp22-24.
玉城康四郎(1986)仏教の根底にあるもの.講談社,p47.
辻直四郎訳(1970)リグ・ヴェーダ讃歌,岩波書店,p131.
道元徹心(2012)天台―比叡に響く仏の声.自照社出版,pp167-172.
橋爪大三郎(2001)世界が解る宗教社会学入門,筑摩書房,p47.
平岡昇修(2015)初習サンスクリット辞典.山喜房佛書林,p171.
報知新聞社,36 歳・室伏、「鉄人」の秘密は“赤ちゃんトレ”.スポーツ報知,2011/08/30.
正木健雄(1978)体育学からみた丈夫なからだづくり.現代と保育 No.1,ささら書房,p52.
水野弘元(1989)釈尊の生涯と思想,佼成出版社,p36.
室伏広治(2012)超える力,文藝春秋,p177.
室伏広治(2019)室伏式世界最高の疲労回復,KADOKAWA,p162.
横井喜彦(1999)感覚を育てる 0 歳児の身体づくり-運動の実践から考える-.季刊保育 1 問題研究,
全国保育問題研究協議会編集委員会編,175,pp134-138.