沖縄東北部の民宿等による交流を重視した宿泊形態の検討
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2012/12/2811:03 0 0
研究ノート
沖縄東北部の民宿等による交流を重視した宿泊形態の検討
―「体験」の次にくる「人と人と自然の関わり」を模索する―
田村浩(1927)『琉球共産村落之研究』岡書院(東京)《復刻1977沖縄風土記社》において「本部落は物々交換経済にして貨幣経済は極めて小範囲に行わる(…)土地を有せざるものなく貧富の度著しからざるなり。即ち家族人数に応ずる耕地を有し、其の常食は甘藷なるが故に、日常の生計は安易にして、日常の雑貨は薪木を財源とし之を交換するに過ぎずして複雑なる交易関係は殆ど見ること能わざるなり」として、土地の所有がなく、貧富の差がないという経済的な理由から社会学用語the Community Village(村落共同体)の訳としてショッキングな「共産村落」と命名され、一躍、有名な集落となった
要約:
沖縄本島の最北端を琉球王朝は王化思想から「王化の光の遠く及ばぬ辺境・辺鄙」として「辺土名」「辺土岬」と名づけ、さらにその最奥の集落は「奥」と呼ばれた。しかし、国頭村「奥」は、沖縄という国の頭頂部にある集落として、かつて、陸の孤島であると同時に、頭部的機能、与論島等奄美諸島那覇貿易の玄関口、中継点、那覇への薪炭供給地でもあり、一時的に人口3,000人と活気があり、賑わっていた。
田村浩(1927)『琉球共産村落之研究』岡書院(東京)《復刻1977沖縄風土記社》において「本部落は物々交換経済にして貨幣経済は極めて小範囲に行わる(・・・)土地を有せざるものなく貧富の度著しからざるなり。即ち家族人数に応ずる耕地を有し、其の常食は甘藷なるが故に、日常の生計は安易にして、日常の雑貨は薪木を財源とし之を交換するに過ぎずして複雑なる交易関係は殆ど見ること能わざるなり」として、土地の所有がなく、貧富の差がないという経済的な理由から社会学用語the Community Village(村落共同体)の訳としてショッキングな「共産村落」と命名され、一躍、有名な集落となった。
戦後、茶の販売、酒造、船の所有、3ヶ所の共同浴場の設置等昭和30年(1955)代まで、その村落共同体はその機能において隆盛を極めた。しかし、待望の道路開通から、人口の流失が始まり、2010年現在、奥小学校の全校生徒が7名という規模になっている。
ここの集落の国道58号線の始点部分にMという民宿がある。ここVillage Communityの末裔の宿に、辺境の自然も含めて、Communityの経験価値を求めて、島内、県外を含めた旅行者が巡礼的に訪れるという事態が生じている。
この宿のオペレーションは「顧客が真に求める商品やサービスを作る」というホスピタリティを実現するマーケッティングが行われ、広告宣伝は皆無でリピーターと口コミでなりたっている。稼動率等は非公開であるが、閑散期とピークシーズンが存在せず、ショルダーシーズンが通年推移していると考えられる。
シンプルなサービス・コンセプトを明確にして、顧客満足の先を行く、顧客から選ばれる「顧客ロイヤリティの獲得」(註1)と同時に顧客を選ぶ「顧客選別スクラップ&ビルト」に成功している。
現在、沖縄の入域観光客は回復傾向にあるが、リゾート関連ホテルは、富裕層対象を含めピークシーズン需要でも売れ残るバブル飽和状態で、「売り上げは減るが人件費はかかるなど効率が悪くなっている。売り上げを上げないと雇用状況の改善も図れない」(註2)状況である。ここで、将来のニーズの開発を含め、修学旅行に期待されるが、上記の宿の値引き状態があっても、本土の京都奈良方面修学旅行と比べて、航空会社を介するにしても不当に高いという構造が問題化している。
また、修学旅行の生徒のリピーター化対策にしても、国籍不明の「南の島」リゾート体験は単に国外リゾートへの入門体験に過ぎないという危惧について議論され、今まで依存してきた「南の島」のステレオタイプ「輝く太陽、青い海、白い砂」から脱皮する新たな県の方針「沖縄文化」へのイメージ移行の具体策提示が急がれている。
近年、複数の民宿に分散宿泊する修学旅行は山梨県西湖の根場民宿村を嚆矢とし、観光カリスマ制度を利用した南信州等では農業ビジネス的観光として、農村都市交流、体験学習、地域交流、リピーター獲得さらに地域振興として実績をあげている。
また、一部の学校ではエージェントを介さず、直接、民宿等を探す自主的な新しい修学旅行作りも行われている。
沖縄のリピーターの特徴として「自然プラス、旅行ではなく友達に会いに行く」感覚が上げられている。沖縄の諺「一度会ったら皆兄弟」というような沖縄人のホスピタリティーには、民宿という「もてなし」宿泊形態が適していると思われる。この「もてなし」は、宿泊者も含めた「自分たち」が憂き世を忘れて楽しめる刹那に小さな幸せを見いだせる「コンサマトリーな時間」とも考えられる。
リピータ率の高いことが期待される民宿を利用した修学旅行を、沖縄農山漁村と都市交流と捉え、「幸か不幸か」未だ観光リソース化されず、手付かずの自然が残りつつ、一部限界集落化が心配される北部、東海岸を中心に環境及び国土保全的地域振興できないかについて考察する。
キーワード:民宿、リピーター、沖縄東海岸、南の島、農山漁村都市交流、ステレオタイプ、まれびと
1.国頭村「琉球共産村落」奥における「民宿囲炉裏公共圏」の成立
1.1 奥集落の地勢風土
那覇から100キロの沖縄本島の最北端の集落の国頭村奥は、沖縄という「国」のまさに頭頂部にある集落である。南部の那覇より気温は2~3度低く、西銘岳等のやんばるの山地が太平洋岸までせまり崖状となり、その台地の上に茶畑や牧場等が広がる海と山と森の地で、陸の孤島であった。鹿児島県与論島は28kmの指呼の間にあり、かつては沖縄の奄美諸島への玄関口でもあった。
オクヒガンザクラという固有種があり、新宿御苑(東京新宿区)でも栽培されている。
沖縄では北から桜が開花する。本部地域が桜の名所として有名であるが、オクヒガンザクラが日本で一番最初に開花する桜ということになる。また、同様の日本における初物として、奥集落は日本一早い新茶の生産地として著名である(註3)。
1929年より本格的な茶の栽培を行っているが、製茶等の管理を行ったのが奥共同店である。
奥の近代前史
田村浩(1927)『琉球共産村落之研究 』の「第2章 琉球共産村落発生 第8項 近世に発達せる奥の共産村落」から、奥が、「共産村落」the Community Villageと呼ばれた所以を概観する。
まず、田村は以下のように大正末期・昭和初期当時の奥集落の概要を述べている。
「奥村は那覇を距る30余里、国頭郡国頭村の東北部に在り、三方は山を以って囲まれ東北は海に面し袋地の如し。各部洛へ通ずるに峻坂あり冬季は海荒くして上陸に容易ならず、陸に海に交通極めて不便なる此の一部落は経済上より自給自足を営むべき自然的環境を有し、村民は相隣共助の団結力強き近世共産村落を形成するに至れり」つまり、地勢的事情から自給自足せざるを得ず、生存の為に運命的に「団結力」が試される環境にあったということである。
「現戸数は214戸あるも村落の形成は比較的に新しく明治初年は70戸に過ぎず(・・・)人口増加するに従い耕地の不足は原始的形式たりし明替畠の7年休耕制を許さざるに至り 3年制を今日行いつつあり。Three Fieldsの如く第1年目は甘藷第2年目は粟、第3年目は休耕をなす、琉球の耕地は通常稲作と甘藷の輪作をなし、之を田倒しと謂う」(・・・)焼畑的な自然農法と思われる。
「土地の共有行われ耕地保護の為に野獣の侵害を防ぐ必要ありし故に猪垣の共同施設を行い三方より三里余りに亙る部落を囲ぎょうせり。高さ数尺以上にして丘陵を剥ぎ垂直と為し上辺を木組し侵入し得ざらしむ。而して此の共同猪垣は各戸に割り当てられ工作をなし其の修理は共同工事となす。」
また、猪垣も村人総出で集落を囲むように作ったという。東に約4.2キロ、西に4.7キロの総延長約9キロ。地形に合わせて高さ2メートル近く石を積み上げ、垣の上部にテーブルサンゴや千枚岩などが置かれている。イノシシの侵入を防ぐ「猪返(いのししかえ)し」の工夫も施されている。(註4)外敵への対応、人口の増加にも、果敢に対応し、コミュニティのあり方として、「コモンズ論」的な資源管理が地域住民レベルでの資源保全の有効な手法として行われていた形跡がある。
「奥の現行制度は他の地方と同じく旧藩時代の経済的、社会的単位としての部落観念強固にして、区長1名は村長の任命により名誉職として地方行政を補助し居るの外、代理区長と会計係と人民総代の各2名選挙せられ、部落行政の任に当れり」という自治的な制度を持っていたが、特筆すべきことではないが、以下、過激な文言となる。大正デモクラシーという大時代を象徴する、ひどく大袈裟な表現にも思える。
「人民集会は全部落の戸主を以って組織し、代議員会は人民集会にて選挙したる7名の代議員を以って組織す。代議員会は毎月1回定期集会を開き区長議長となりて諸般の協議をなす、各組は各組集会を行い組長より各戸に協議事項を伝達す。斯くして部落は自治的、組織的形態を為し、能く整頓せられ組は部落の一単位として活動せり。組は旧藩に於ける与にして教育、勧業、納税等一切を督励し総べて共同自治の精神を以って僻遠の土地にありて近代形式の共産村落を形成せり」
かくて、奥集落は社会学用語the Community Village(村落共同体)の訳としてショッキングな「共産村落」と命名された。
奥の近代後史
沖縄人は奄美大島のことを琉球王国時代の名称で「大島」という。戦後、沖縄及び奄美群島が米国統治下におかれ、沖縄と奄美群島は「ウチナー」(沖縄本島)と「大島」の関係に戻り、奥はその人や物の往来の中継拠点として栄えたと考えられる。
その時代、戦後の一時期は、人口が3,000人を数え、共同店による機帆船購入(那覇との「貿易」)、共同店酒造所、共同浴場の設置、郵便局(唯一の行政機関窓口)の開設等の隆盛となる。
やがて、1953年、奄美群島は日本の鹿児島県となり、奥と与論島の海峡は国境となる。奥は中継地から単なる沖縄本島最北端の辺境となるが、道路が整備され、本格的に那覇と「地続き」となる。集落の人皆喜び機帆船は処分された。しかし、これ以降、人口の流出と過疎化が始まる。
沖縄県となった以降も、奥と与論の海峡往来は再び活性化せず、奥の隣の集落は辺土名で辺土岬があるが、本格的な辺土、辺鄙となってしまった。
この辺土・奥の地名は、昔はいざ知らず、未だに約100キロの移動距離は那覇の人(島人しまんちゅ)にとって遠い場所、琉球王土の辺境になってしまうようだ。
沖縄は「高速道路の無料化社会実験」が2010年6月28日から2011年3月までの9ヵ月間、沖縄自動車道の全区間(那覇~許田57キロ)で実施されているが、人の行き来は名護で終わり、その先は「奥の細道化」している。那覇の都の住人は未だにかなりの決心をして「白河の関」でも越える気分で旅して、この奥までやってくる。本土から波濤を乗り越えてきた旅行者にとって那覇からのドライブは苦にならない。
The Community Villageの今
一部の村人は「共産集落」の名称に憤慨したという(註5)。しかし、田村の著書は社会学の研究書で、まったく限られた人の眼に触れるだけであったと考えられる。また、村人が知ったとしても、あまりの辺土で行政の出先もなく、コミュニティーとは行政から与えられるものではなく、自らが主体的に作り上げていくものとしか考えられなかったので、その由来を説明されれば受け容れたとも考えられる。
共同作業による「結いマール」(註6)、共同店を結節点とする「ユンタク」(註7)がコミュニケーションの基礎であることは現在でも伝統になっている。
しかし、この共同店の飲酒を伴うユンタクは共同店のジレンマともいえる。
この奥共同店の夕方に主に土木作業から集落に帰り着いた、米軍海兵隊の迷彩の上着を着た村人のユンタク風景はNHKの全国放送メディアで沖縄的風景として地方発ニュースとして「南の島はのんびりしていて、気楽そうでいい」というステレオタイプの広報として、よく取り上げられる。
しかし、このメディアでとりあげかたは仕事の大半が土木工事である等々の複雑な現実を「スルー」し、閑却している。
しかし、心優しい人達はメディアが来れば、楽しい「南の島」を演出してくれるのである。今の沖縄はこの「南の島」のステレオタイプで観光立国しようとしているのだから。
勿論、みな気の合った仲間で、辻々で拾った話を交換して楽しく酒を飲みユンタクしている、場合によってはかなり飲む。これは共同店の収入になる(註8)。外来者の余計なお節介な心配だが、共同店への酒代のツケが心配になる。しかし、このユンタクも高齢化であまり勢いがないらしい。
囲炉裏を囲むという公共圏
―The Community Villageとしての民宿M―
ここの集落の国道58号線の始点部分にMという民宿がある。「顧客が真に求める商品やサービスを作る」というマーケッティングが行われており、広告宣伝は皆無でリピーターと口コミでなりたつ稀有な民宿である。
稼動率等は非公開であるが、閑散期とピークシーズンが存在せず、ショルダーシーズンが通年推移していると考えられる。
ここに前述the Village Community(運命拘束的農村共同体)であった奥の集落に旅行者が集まる意義としては、自然も含めて、「帰属意識」(註9)、「親密圏」、「公共圏」(註10)を求めて、訪れることが考えられる。
ここに新たな運命的討議的コミュニケーション・コミュニティが生成されている。
もっとも、当時のような濃密な情緒性と結束力をもった絆ではない。この新しいコミュニティは、薄く、弱く、拡張的なものであり、各々の来沖回数(「沖縄ストーカー度」野村浩也,2005)の披露やら、都市でのダイナミックに流動化する社会的現実から身を守るための、一時的な「くつろぎの場=ゆんたく」(平均宿泊日数1.5日)として形成されている。
このコミュニティは、「コミュニティ感覚」(註11)を持った対話的なコミュニケーションのネットワークと考えられる。その対話は批判的な判断力を下すことのできる「公共」感覚がある。その中で、自分の仮説や自分の下す判断が他者の判断と照らしながら、検証され、対話のなかで形成されていく。「公共圏」といってもいいと思う。
この沖縄島民旅行者を含むコミュニティ「奥民宿囲炉裏公共圏」の交流は、旅行という個人主義と矛盾せずに発達する可能性がある。人々は、仕事や家庭以外の場である旅先の、囲炉裏という「場所」における「ユンタク」という参加型のコミュニティにおいて創造力の実現や承認願望の充足、自己の個人的表現の達成を求めるようになっている。
このコミュニティで意気投合した人達はその後、公共圏的性格を持つオンライン・コミュニティを重ね、再び「奥民宿囲炉裏公共圏」のオフライン・コミュニケーション・コミュニティに集うことになる。
こうした民宿の宿泊者のネットワーク(交流)をもって「コミュニティ=共同体」と呼ぶことには、抵抗を覚えるかもしれない。
しかし、ここ「奥民宿囲炉裏公共圏」では、旅という個人主義的な生き方と、参加型コミュニティ(交流)の現実があまり矛盾せず成立している。
2.沖縄におけるホスピタリティを考える
リゾート「南の島」ステレオタイプ」イメージから文化的イメージへのシフト」の役割を担う民宿
周遊観光的な活動・観光商品・サービスは既に陳腐化し、「体験型」「参加型」観光へシフトしていると言われている。しかし、観光関係者が「体験・体験」と言うあまり、活動乱立とまではいっていないが、これも陳腐化一歩手前にあるような気がする。
沖縄県政が取り組む「リゾートイメージから文化的イメージへのシフト」とは、今まで依存してきた「南の島」のステレオタイプ「輝く太陽、青い海、白い砂」を棄却して、新たな観光形態、文化的イメージの観光へのシフトする文化的観光形態の開発と考えられる。
宮城は「大量生産,大量消費型観光」(註12)を反省し、さらに、ホテルのオペレーション改善等で、文化的イメージへの移行を模索している。しかし、筆者はホテルという宿泊形態そのものが「大量生産,大量消費型」モノカルチャー観光を前提としている。
これは大自然と不自然な利便性(自然と文明との落差の矛盾)を同時に追求するリゾートにおいては沖縄の自然と文化を「リソース化」して消費・消耗することによって成立していると考えられる。
自然と文化の多様性を前提とするイメージ移行はリゾートホテルという経営手段では難しいと考えられる。
沖縄県への訪問客の内,1983年にリピート客の割合は19.7%であったが,2008年には76.4%に達している(註13)。これは、民宿Mの2010/12/29~2011/01/01のリピーター率とほぼ一致する。
沖縄のリピーターの特徴として「自然プラス、旅行ではなく友達に会いに行く」交流感覚が上げられている。沖縄の諺「一度会ったら皆兄弟」というような沖縄人のホスピタリティには、ホテルよりも民宿というもてなし宿泊形態が適していると思われる(註14)。
沖縄県への訪問客数が鈍化している中で沖縄観光が文化にシフトして生き残るためには、ホテルの集客に頼らす、リピート客が期待している多様なニーズ、交流重視に対応できる民宿による宿泊形態の整備が急務と考える。(註15)
民宿経営者のコンピテンシーとは
筆者はリゾートホテル宿泊をやめ、直近10年で沖縄本島(4ヶ所)、宮古島(2ヶ所)延べ滞在日数60日で民宿を体験したが、そのホスピタリティにはたいへん満足した。
これらの民宿経営ハイパフォーマー(高業績者)から抽出したコンピテンシー(高業績者行動特性)及び経営の特徴としては
・うわべだけのサービスはサービスと考えない。
・「ありがとうございます」口でいうより、「お客が求めるものを出すこと、手作りで美味しいものを食べてもらうことがサービス」と考える。
・リピーターとなることがステータスとするようにする。
・アルコールで利益をあげようとは考えていない(泡盛は無料提供on the house・持込自由・民宿向かいの酒屋で買う等々)。
・正に自分の家に来てもらって「まれびと」接待しているイメージ(註16)。
・クレーマーやひどい客に「帰ってください」と言える(註17)。
・客に媚びない(註18)
以上、サービス・コンセプトを明確にして、顧客満足の先を行く、顧客から選ばれる「顧客ロイヤルティの獲得」(註1)と同時に顧客を選ぶ「顧客選別スクラップ&ビルト」とリピート率の高さに成功している。
3.東北海岸の開発ということ
グアムの東海岸の開発と脱植民地主義
グアムの事例として、自分達のアイデンティティーと自然を守りながら観光を始めようと、東海岸で、ジャングルクルーズや、トレッキングをはじめて、東海岸が活性化しているという。(註19)
これは、「西海岸を中心とする西向きのリゾートでのんびり何もしない」的な南の島ステレオタイプから改宗させるのは大変なことだったと思う。しかし、メディアが、「南の島・椰子・海岸・昼寝」等のステレオタイプを破る発信をしたことは評価できる。
グアムの試みは「ポストコロニアル」における脱植民地的・脱ステレオタイプ観光ととらえることはできないだろうか。
日本人に基地のない沖縄を奪われていた
野村浩也 (2005)は沖縄で「私が生まれたときから基地が目の前にあったのは、日本人に基地のない沖縄を奪われていたからなのだ。このような現実に植民地主義という名前がつけられている」(註20)としているが、野村は「ポストコロニアリズム」における沖縄の観光の処方については言及していない。
「愛という名の支配:“沖縄病”考」(野村浩也,2005)にある「沖縄病」の本土人の集まりであるが、「奥」の特徴は、本島人の旅人も集い、沖縄病について検討が行われる場になるということだ。無意識が暴露されて意識化する刹那がある。(註21)
例えば、「奥」で生涯スポーツにおける「帝国陸軍末期」の理不尽なミリタリズムを受け継いでしまった部活という阻害要因について議論している際に、沖縄の人から「本土の人はそのようなシステムをむしろ好んでいるのではないか」という指摘に心の目が開かれた思いがした。
そこで、2010年夏の甲子園を制した沖縄我喜屋監督の指導方針「勝って驕らず、負けて腐らず」。相手に失礼なガッツポーズや、負けると世の中が終わったように身も世もなく泣き伏す、寝転がる燃え尽き態度を否定する指導技術、指導方法は沖縄独自のものであることに気がついたのである。(註22)
沖縄における植民地的モノカルチャー観光からの脱皮
川満信一(2010)は「各村々には昔のような黒糖工場を作り、他には趣味的な園芸作物や薬草園、工芸、芸術の産地として計画します。また、豊富な環礁を活用して、自然と調和した海草や漁巣のプランターを造成し、食料供給とします」として「従来のモノカルチャー農業」からの脱却を説いている。
これは「ポストコロニアリズム」でも継続する植民地的特質であるモノカルチャーを脱皮する多様性のあるマルチカルチャー農業、漁業の在り方の提案ととらえることできる。(註23)
それは観光においても、「ポストコロニアリズム」・植民地状態の克服にはリゾートホテルというモノカルチャー観光から、多様なマルチカルチャー観光の開発が必要であることを意味している。
夏限定の観光地、西海岸から東北海岸へ
秋から冬、気圧配置が西高東低となると西海岸は怒涛及び様々な漂流物が打ち寄せる。ウィンドサーファーには絶好の季節となるが、人影は消え、ホテルも休廃業状態となり、非常に殺風景な海岸となる。気圧配置が西高東低になり西風が吹き出したら、西海岸は使えなくなる期間限定の観光地である。
その点、東海岸は、台風の余波を受けるシーズンが終われば、夕日は拝めないが、西風が吹いても、暖かい日が差す陽だまりの長閑な海となる。
先のグアムの事例でもあったように、西は「資本と覇権グローバリズム」(川満信一,2010)的に開発され、東は「アイディア提供のグローバリズム」によって自分達のアイデンティティーと自然を守る手作りの多様な観光が根をおろしつつあることを述べた。沖縄も同様に構造において、様々な事情からも、グアム同様に幸か不幸か、東北海岸には手付かずの自然が残っている。
そこで、「ポストコロニアル」「脱植民地」「脱ステレオタイプ」「東海岸」をキーワードに考えても、東北海岸の観光は「資本と覇権」による「海岸破壊によるリソース化」ではなく、「アイデア提供」の交流・マルチカルチャル・多様性重視の民宿等利用の自然保全の形で進められることが望ましいと考えられる。
東北海岸の現状
東北海岸は奥の民宿Mから南下した、安田にも安波にも東村平良の体験民宿Sまで30キロの間に5軒あり、固定客もいて、営業されている。安田のような絵を見るような沖縄の原風景を残す観光開発は地域の民家(目立つ空き家を含めて)を活用した宿泊が前提となると考えられる。
国頭村楚洲に社会福祉複合施設「楚洲あさひの丘」(旧楚洲小中学校ルニューアル施設)があるが、今後の指定管理者の努力が注目される。
東村村民森つつじエコパークキャンプ場
東村の開発は、米国陸軍工兵隊による南部の水甕としてのダム開発からスタートした。
東村の村民の森つつじエコパークは海岸から登った岡の上で、ダム開発も絡めて総額36億円を投じた施設で、その中に、沖縄県最大規模のキャンプ「場」がある。
そこにはPAという米国発祥のハイエレメント等のロープによる冒険教育コースが設置されている。岡の上のさらに地上10mの高さから、太平洋の海原を眺めつつ、目の前の撞木に飛びついたり、ダイブしたりする雄大な施設である。日本国内のPA施設としては最大規模の投資額と言われている。また、絶好のカヌー環境(ダム湖、川、海)、玉辻山トレッキング等が行われ、沖縄のキャンプ愛好家が一同に会する年一回のオートキャンプ大会が、定例化している。
また、シロアリ被害が社会問題となっている沖縄において、九州からシロアリに強い材木を輸入してコテージが建築されている。東村に里帰りした人等にも利用は広がっているが、稼働率が課題になっている。
沖縄の自然を生かす冒険教育のあり方
今後の課題、冒険教育の発展の道筋として、さらに自然と親しむプログラムが求められる。
英国発祥の冒険教育の老舗である財団法人日本OBSではハイエレメントのプログラムコースを卒業して、日本の自然を利用したプログラムへと発展を遂げて冒険教育の効果をあげている。(註24)
課題「体験」の次を考える
慶佐次では、マングローブの林付近でカヌーの「体験」が行われていた。しかし、あくまでもそれは「体験」で終わっていた。リピーターとなる魅力については、尻が濡れるというマイナス体験をしきりに気にしていた参加者を見て、疑問に思った。感動があれば、そのマイナス体験は無視、克服されるはずではないか?そろそろ「体験」の次、ツーリング的要素、自然の深部、自然の厳しさにアプローチする冒険等も考える時期に来ていると考える。
カヌチャベイリゾート
カヌチャベイリゾートは東海岸に位置しているがリゾートホテルであるが、辺野古の対岸にある。東海岸の選択肢として必要かもしれない。しかし、コンセプトとしては国籍不明である。
4.民宿村を作るということ
近年、複数の民宿に分散宿泊する修学旅行は山梨県西湖の根場民宿村を嚆矢とし、観光カリスマ制度を利用した南信州等で、体験学習、地域交流で実績をあげている。また、一部の学校ではエージェントを介さず、直接、民宿等を探す自主的な新しい修学旅行作りも行われている。
リピータ率の高いことが期待される民宿利用の修学旅行
以前、山梨県西湖の根場、南信州の民宿村インタビューで、共通していたことは、「修学旅行等で宿泊した子どもが、家族で来る」というコメントである。
前述、沖縄のリピーターの特徴として「自然プラス、旅行ではなく友達に会いに行く」交流感覚が上げたが、民宿という宿泊形態のなせる業と考えられる。
リピータ率の高いことが期待される民宿を利用した修学旅行を沖縄農山漁村と都市交流と捉え、民宿村でできないだろうか。
これには、民宿の組合化、産業化が課題となる。西湖の根場民宿村には事務局が存在し、事務局長が学校等に営業活動を行い、静岡県熱海市沖の初島には民宿の事業協同組合がある。また、南信州では、国土交通省が地域観光振興人材養成を目的に、特色のある観光地づくりに貢献した,指導的な人として選定された観光カリスマが徹底的に活躍した。
現在、沖縄では民宿等を他の産業と結び付けて産業化する観光カリスマは存在しない。
北部、東海岸は「幸か不幸か」未だ観光リソース化されず、手付かずの自然が残っている。
これらの限界集落化が顕在化する以前に沖縄の諺「一度会ったら皆兄弟」というような沖縄人のホスピタリティーを敷衍させ、環境及び国土保全的沖縄農山漁村都市交流の地域振興は急務と考えられる。(註25)
ハウストレーラー利用の検討
民宿を開設するのに客室増設が課題となるが、トレーラーハウスである小屋形の木の米国製日本組み立てのキャビンが民宿として適していると考える。アメリカ製のトレーラーは、米国の外圧によってクルマがついている動産と判断され、固定資産税がかからない。
客室としては、プライバシーが保たれる空間となる。
自治体が災害時の仮設住宅として購入し、通常は民宿のバンガロー代わりの施設として使い、災害時には仮設住宅としての利用することが考えられる。
また、一応、牽引して移動可能であり、災害時や、季節の変動で、西海岸から東海岸等への移動は可能である。(註26)
民宿の「簡易宿所」の営業許可に関して、トレーラーハウスが客室面積として可能かどうか、行政の特別な判断が必要かもしれない。
ユンタクの場・公共空間の確保
交流を目的とする民宿等では宿泊客のユンタクの場(公共圏)を確保する必要がある。だれもが24時間利用できる公共空間が必要になる。テーブルを囲めば良しとする考えはあるが、囲炉裏等の火があればベストである。ここで問題になるのは「ユンタク」のファシリテーター・進行役としてのホストの個性と力量で、それがコミュニティの性格と質を決定する。
5.まとめ
以下にまとめを述べる。
修学旅行の生徒のリピーター化対策については、現行の国籍不明の沖縄「南の島」ステレオタイプ「輝く太陽、青い海、白い砂」体験では、円高状況に加え、羽田の国際化が進めば、国外のリゾートへの入門コースになってしまう。
修学旅行を沖縄農山漁村と都市交流と捉えてプライバシーが確保されるハウストレーラーのキャビン利用の民宿村を作る。そこは沖縄の諺「一度会ったら皆兄弟」というような「まれびと」を饗応する沖縄人のホスピタリティーを生かす観光形態とし、沖縄興南高校の甲子園を制した沖縄我喜屋監督のような沖縄産のコンセプトを全国に広げる場とする。
沖縄のリピーターの求める「コミュニティ感覚」「交流感覚」を満足させる「くつろぎの場=ゆんたく」公共圏的機能を持つCommunity民宿の受け皿が必要であり、そのためには民宿のグレードアップ、産業化が重要である。
「コンサマトリー」な民宿オペレーション、行動で表すホスピタリティサービス・コンセプトを明確にして、顧客満足の先を行く、顧客から選ばれる「顧客ロイヤルティの獲得」と同時に顧客を選ぶ「顧客選別スクラップ&ビルト」を実現する民宿的接客を特化する研究、「ユンタク」コミュニティーのファシリテーター・進行役としてのホストの事例研究を行うことも求められる。しかし、この「もてなし」は、経営者・宿泊者も含めた「自分たち」が憂き世を忘れて楽しめる刹那に小さな幸せを見いだせる「コンサマトリー性」も要求される。
民宿観光は「ポストコロニアル」脱植民地主義と北部東海岸の環境及び国土保全的開発として振興する。それは今まで依存してきた「南の島」のステレオタイプを食い破る文化的観光開発といえる。
スローガン的には脱ステレオタイプ観光、脱「大量生産,大量消費型」モノカルチャー観光、脱「資本と覇権グローバリズム」となる。「大量生産,大量消費型観光」(註12)を反省して、行き過ぎた利便性追及型リゾートから沖縄本来の自然の中で、多少の不自由さを受容れて楽しめる旅行者のスキルも求められる。
北部東海岸開発はアイディア提供のグローバリズムへ転換し、農業、観光のマルチカルチャー化、閑散期の開発等をコンセプトとして取り組むことになる。
そろそろ陳腐化しつつある「体験」の次を考える必要がある。沖縄の自然の虜にするツーリング的要素、自然の深部、自然の厳しさにアプローチする冒険要素等も考える時期に来ている。それはリピーターの確保につながる。
《註及び参考資料》
註1:ロイヤリティとは「忠誠心」「愛着」「依存度」などの意味で、そこから顧客ロイヤリティとは、企業自身やその企業の製品・サービスに対する顧客の信頼度、愛着度を示す言葉。この顧客ロイヤリティをリアルに反映する指標としては、リピート率が挙げられる。顧客の真意は、実際に購買を繰り返すかどうか、という活動となってのみ表れるからである。そうした意味においては、購買後の顧客満足度などの出口調査だけで顧客ロイヤリティの高い低いを判断することは危険である。顧客の満足は顧客の維持に直結しない。顧客を維持するためには、顧客満足の先にあるものを目指さなければならない。
註2:沖縄タイムス「売り上げは減るが人件費はかかるなど効率が悪くなっている。売り上げを上げないと雇用状況の改善も図れない」(那覇セントラルホテル中村聡社長談)2010/6/15沖縄県観光商工部2009年度「観光統計実態調査」結果発表報道
註3:他県のブランドとして出荷している場合もあるという。
註4:畑のイモやアワなどの食糧をイノシシから守るために1903年に構築された。ウーガチ(大垣)と呼ばれる共同猪垣で、住民が所有する土地の面積に応じ管理が割り当てられた。垣の破損やイノシシの侵入を監視する見回り役も配置され、維持管理は奥の住民の最も重要な義務だった。畑に侵入したイノシシは捕獲され、住民の貴重な肉食糧となった。戦後は過疎化で維持管理が困難になり、59年に共同管理を終了した。(2010/2/3『琉球新報』)
註5:奥共同店(2006)『奥共同店関係資料集1』奥共同店,p167
註6:「相互扶助」を順番にかつ平等に行っていくこと
註7:おしゃべり、辻々で集めた情報の交換、もしくは話のための話。
註8:かつては、この集落に共同店が酒造所を作った理由は、村人があまり酒飲みで、村外にお金が出るのがもったいないと考えたからだという。
註9:「帰属意識」曖昧かつ不安定な現代社会において、旅先の沖縄で帰属と安心のよりどころとしての「奥民宿囲炉裏公共圏=コミュニティ共同体」が評価される。
註10:「親密圏とは具体的な身体に配慮がなされる空間である。公共圏とは閉鎖的な親密圏に対し、社会的広がりを持つ不特定多数の集う議論空間であり、問題の共有と解決への道を探る場である。そして、コミュニティは親密圏的性格と公共圏的性格を併せ持ち、地域性と共同性、地域感情を基礎とする」藤田香久子(2007)『シニアネット研究』北海道大学大学院博士論文趣意書
註11:「コミュニティ感覚」とは、主観と客観の誤認や錯覚を避け、自己の社会的な帰属を、公共的な事柄として「想像」するための感覚。橋本努(2006)「書評・コミュニティ グローバル化と社会理論の変容」『図書新聞』2006.6.24.p5
註12:宮城博文(2009)「沖縄観光におけるリピート客獲得の取り組みー経験価値創造を中心としてー」『立命館経営学』第47巻,第6号,p144
註13:沖縄県観光商工部観光企画課『平成20年版 観光要覧』沖縄県,pp7−9.
註14:これは、私のまったく偏見に近い個人的意見かもしれないが、沖縄の人は、大きなリゾートでホスピタリティを発揮するのには不向きな気がするのである。以前、沖縄のリゾートホテルに行って、思ったことは、あまり、地元の従業員と思われる人が心楽しく、仕事をしていないのでは…ということだ。これは、筆者のグアムでのフィールドワークの際、ホテルのクラークをするフィリピン人、観光関連の在グアム日本人が話すネイティブの地元民が観光産業従事者となりにくいフードスタンプの受給に関する話等のインタビューが印象に残っており、その直後、沖縄の本土系のリゾートホテルに宿泊してグアムと沖縄が重なった思いである。
これだけ観光立県といいながら、大学生の就職先としてはサービス業系に人気はなく、電力会社とかのインフラ系、または公官庁系に人気が集中しているようである。琉球大生の発言で「君はホテルに就職しないの?」回答「あれは高校生のバイトさあ」(1999)であった。
これは川満信一(2010)『別冊 カオスの貌』龍吟舎,p57「資本と覇権グローバリズムをアイディア提供のグローバリズムへ転換する」ことにならないだろうか。
註14:これはフィクションではあるが、ホテル・ハイビスカス(仲宗根みいこ、2003『ホテル・ハイビスカス』新潮社)とは一家と「まれびと」との交流の視点で描いた作品。ホテルは二食付きで一泊四千円位。子どもが部屋として使っているので、お客さんが泊まれる部屋はひとつだけ。一家はホテルを訪れるニライカナイの彼方から来る「まれびと」を待ち続ける。客は「まれびと」として一家に饗応される。腕白でお転婆な小学校3年生の美恵子をはじめ、バーで働きながら家族を支えている美人の母ちゃん、ビリヤード屋で本当に稀にしか来ない客を待つ父ちゃん、黒人とのハーフのケンジにぃにぃ、白人とのハーフのサチコねぇねぇ(米国人も「まれびと」として扱われる)、そしてくわえタバコのおばぁ。美恵子は親友らと、人々を祝福する土地の霊、森の精霊、先祖の霊(盆に帰る「まれびと」)と日常的に交流している。
註15:クレーマーやひどい客に「帰ってください」と言えることは、民宿やキャンプ場等の客同士の垣根が低い宿泊施設では、経営者の毅然とした態度が他の客を安心させるという機能がある。一度理不尽なクレームを聞き届けてしまうことが、クレーマーを育てると言われている。また、クレーマーとは相手の嫌悪感を刺激し、相手を「強い葛藤状態」に置くことで優位に立とうとする。対応者は、その不安から逃れるため、または、嫌悪感を抑圧する方向へ心理的メカニズムが働き、反動として、不本意な謝罪をしたりする。クレーマーは反動形成的な対応行動の、不自然さや変な緊張感に敏感に気づき要求をエスカレートさせる特徴がある。反動形成的に謝ることはクレーマーのシナリオに乗せられてしまうことになる。
理不尽なクレームへの対応とは真摯に相手のクレームを聴き、ひたすら相手の言葉を繰り返し、相手にクレームの理不尽さを気づかせるか、拒絶するか、しかない。
註16:ある民宿では、「仲間同志で話題が完結してしまうような団体客は断っている」という。
註17:テレビ朝日『旅サラダ』2010/05/01
註18:最近の言説としては「私が生まれたときから原発が目の前にあったのは、東京人に原発のないフクシマを奪われていたからなのだ。このような現実に植民地主義という名前がつけられている」ということになる。
註19:野村浩也 (2005)の言説
野村浩也の言説「植民者と被植民者の共犯化の政治」、「沖縄病患者=沖縄ストーカー」、「観光テロリズム」、「沖縄における日本人の圧倒的に危険な暴力的現実」にはおおいに納得し、反省し、今回、このキーワードを使って沖縄県民約9名にインタビューした。「まあ、そういう考えの人もいる」というのが大方の意見であった。(2010/12)
註20:「監督の怒鳴り声で追い回される野球少年」、「怒鳴り声にも慣れ、表面はしおらしい態度でも、心の底では背を向けていたりする子ども」、「怒鳴らない人の言うことは聞かなくなる子ども」を育てる部活、「一将(監督)功成りて万骨(選手)枯る」(白光晴一,2010)というような高校野球界は「他者を合理的に蹴落とす訓練のための、すぐれた文化装置」(倉品,2010)となっている。
我喜屋監督の指導方針は「勝ちにこだわって選手を追い込み、萎縮させてしまうことなどあり得ない」「勝って驕らず、負けて腐らず」(ガッツポーズは相手にとって失礼である。負けると世の中が終わったように身も世もなく泣き伏す、寝転がる態度はここで燃え尽きてしまうことを意味する)「そのような指導法が沖縄中に行き渡り、何でも本土の真似しかしない沖縄にあって、沖縄独自の指導技術、指導方法を確立してほしい」。興南高校の事績は「本人にとって、また指導した者、共に活動した者にとっても、思い出したくない暗い記憶となる日本の高校野球のありようを少しは変えられたかもしれない」(白光晴一,2010)
註21:沖縄の田んぼと炭焼きによるマㇽチカルチャー
最初に沖縄に行って渡嘉敷島に渡ると、田んぼがあった。別に日本的原風景として気にもとめなかったが、その後、その本土的原風景は沖縄では稀有であることを知った。石川の一部で行われているらしいが、かつては沖縄に田園風景があったが、基地の占める面積の多さに、田んぼを宅地として開発したという歴史がある。二期作が期待できる沖縄において、奥の集落でも田んぼを復元することはできないか?田んぼの技法が廃れないうちに、田んぼを復活してはと思う。田んぼは生物の多様性を確保する最良の農法及び環境教育と考えられる。
また、国頭村に炭焼き窯がある。沖縄では本土のような杉の植林は行われず、現在の「やんばる」の森は極相林と考えられ、それなりに多様性が保たれているのかもしれない。しかし、沖縄的里山を模索することはできないか。萌芽更新可能な広葉樹主体の里山化である。昔から里山型の森は生物の多様性、バイオマス生産性、CO2固定(炭酸同化)作用が高く、持続可能性が高いことは知られている。
以上、田んぼの復活、炭を焼くことによる森林及び環境の持続可能的保全は、モノカルチャー植民地脱皮、マルチカルチャー化には必須と考えられる。
註22:過日、筆者は、東村平良の海岸からカヌーで海上保安庁ロラン局のアンテナがある岬を越えて慶佐次のマングローブ林を目指し、また、長漕、平良に戻った。
慶佐次では、マングローブの林付近でカヌーの「体験」が行われていた。しかし、そろそろ「体験」の次、ツーリング的要素も考える時期に来ていると考える。
また、ツーリング的要素として、自転車(MTB)を貸し出して、やんばるの縦横に廻らされている林道を使った陸ガメが歩き、巨大シダが生えるジャングルのツーリングもやんばるの自然の核心にせまめるプログラムになると考えられる。
さらに、昔の人が通っていた路を復活させてトレイル(自然の路)を作れないかということである。昭和初期の記録を読んでも、やんばるでは、現在の海沿いの道ではなく、かなり山に入った、滝があったり、自然の豊かなところを街道がとおっていた記述がある。
米軍普天間飛行場の移設問題で、国頭村安波区(渋井登志代区長)の住民の一部が、道路整備などの地域振興策を条件に、同飛行場の代替移設の受け入れについて、話し合いに応じる可能性があるとの考えを、政府に伝えていたことが13日分かった。2011年5月14日沖縄タイムス朝刊
註23:南三陸町町長のジレンマ
津波で多くの町職員を失った宮城県南三陸町の佐藤仁町長「職員は被災しながら、書類もなにもない中で役場機能を復帰させるなど良く頑張ってきた。長丁場なので、少しは休ませないといけない」「職員もほとんど家を失っているから、『家に帰って』という言葉が出ない」佐藤町長は自宅も失い、非政府組織(NGO)から借りたトレーラーハウスで寝泊まりしている。東京新聞,2011年5月13日。
プレハブ住宅には居住性は劣るが,アメリカのトレーラーハウス(キャンピングカー)団体には、中古ながら約10万台からのキャンピングトレーラーハウスの備蓄があるという.プレハブ関連の業界団体及びタイアップしている自治体の法令による抵抗が予想されるが,この際,輸入して,一刻も早く,避難者のプライバシーを確保できる空間を確保する必要がある.復興後は,本来のキャンプの宿泊施設として使いつつ,治に居て乱を忘れず(治而不忘乱:『易経』)災害用に備蓄することが可能となる.
《参考文献等》
奥共同店(2006)『奥共同店関係資料集1』国頭村奥共同店
田村浩(1927)『琉球共産村落之研究』岡書院(東京)《復刻1977沖縄風土記社》
野村浩也 (2005)『無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人』御茶の水書房
川満信一(2010)『別冊 カオスの貌』龍吟舎
ジェラード・デランティ、山之内靖/伊藤茂訳(2006)『コミュニティ グローバル化と社会理論の変容』NTT出版
白光晴一(2010)「2010年春選抜、興南高校優勝!」『アカバナー通信』2010/04/09
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倉品康夫(2010)「スポーツメディアリテラシー―遠くなるスポーツ実践・スポーツメディアのイデオロギーを批判し、その枠から飛び出すことを選び取っていく生き方を考える―『東京体育学会第 1 回学会大会支部会報とうきょう2010年度第3号』p7